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2007-07-06 13:19 | カテゴリ:モノローグ
人はそれぞれ違う感覚を持ち合わせて生まれ、一緒にこの世界に生きている。私はその中でものづくりを生業にいきることを選んだ。

そのものづくりへのこだわりは感覚が似たもの同士だとテイストはやはり似てくる、けど違う感覚がぶつかるとたいてい0か100の答えが待ってる。

私は味覚が少ない。いや味覚を表現する方法が少ない。
あまり細かく感じない。たぶんいやと思ったら絶対口に入れないからだと思う。その逆にだからこそかなり舌が肥えている。
自分の味覚でいうおいしいものしか絶対食べない。嫌々口に入れることをしないので必ずと言って、美食家ですねって言われる。

でもこの話一瞬は矛盾に思えるはず、味覚が少ないのに美食家?
と・・・そこが社会でもよくある盲点なんだと思う。

人はいろんなものを複数に取り入れすぎると感覚が鈍ると私は言い切っている。甘いか辛いかしか言わない私だけれどその2つはかなり深い。
どのように甘いかどのように感じるかまでを明確に情景的に味を言葉にする。感じたままを言葉にするとき、味覚用語だけでは追いつかないのがその理由。

PINK色の味。それも少々乳濁してる味。
舌がひび割れる味。口が凍る辛さ。

その代わりおもしろいのがおいしいときはおいしい以外はない。
どのようにおいしいなどということは不必要に感じる。
ただおいしい。のだ。

で、いつも事務所で和馬たちと相互理解不能になる。

和馬「これ甘いな?」
あげは「え??酸っぱい」
和馬「あずきは甘いやろ?」
あげは「あんこは甘いけど小豆は豆独特の酸っぱい味するやん??」

てな感じでまったく持ってお互いの感覚を理解することが出来ない。
芝居をやってても同じことがおこる。
これも感覚の違い。

そして音楽でも。

フルケン「コードはCやで」
あげは 「絶対違うおとや」
フルケン「あってるよ」
あげは 「だって違う音やもん」

この会話の理由は。ドミソをいっぺんに弾くとCというコードになる。
そしてミソドと弾いてもソドミと積んでもコードはC。

でもあげはにはその3つとも違うコードに感じてしまうので歌えないという。ましてギターなんてその3つの弦が同じ指圧で押さえられていないと微妙に音が変わる、その瞬間、間違ってると私は言い出す。
弦を爪弾く力加減も一定でないと気持ち悪いと言い出す。

でもフルケンはそれを理解するのにほぼ1年かかったらしい。
CはCやん???だったからだそうだ。

これも感覚の違いから発生する問題。
私は多くの感覚を持ち合わせていないからこそ持っているものはものすごく繊細で敏感らしい。方向感覚なんて皆無に等しい。
だけど普通の人って結構本人が思ってるよりいろんな感覚に恵まれている気がする。

私はアーティスト活動をしてるけど、ものすごく限られた感覚の中でそれを濁さないように生きてきた気もする。
もちろん考えたこともないけど、最近質問攻めにあったのでそう考えてみるようにした。でも狭い視野の狭い感覚の私が広い世界に生きているこの微妙な矛盾が心地よいことが多い。

感覚は少なくそして深いことがすべてなのではないかと思い始めている

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