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2012-11-02 02:31 | カテゴリ:モノローグ
3日に控えたショーの企画演出制作指揮もやっと一段落させていただけました今宵

ホッとするとともにバタバタした数週間の果てやっと一人ゆっくりできる深夜を満喫しております


最近口から誰か特定の人物への批判を含めた日々の不平不満を立場わきまえずに喚く人とは無性に疲れるといふことを知りました・・・・ホントに・・・どんだけ自分の不満をぶちまけて周りを汚染するのか?
そのガメツサとも言える言動に恐怖心さえいただいておりまする



さて、タイトルに表記いたしました大人の傲慢、上記のこととは多少似たりよったりでもございますが
私ありがたいことに約13年ほど母親という役目もギリギリのところでさせていただいておりまして・・・(生んだだけの親という声も多々とございますが・・・)


子供の成長と共に、家庭内では様々な意見の違いが交錯するわけでございます。
何せ私の家庭というものは実に多数の大人が交流をする場でもございまして、息子の成長過程、それぞれが想う子供の為という言動が飛び交っているわけでございますが・・・


時に私はそのすべてのありがたい行動に物申す戯けものでございまして・・・感謝しているとは言え、自分を意見を言わないわけではないので時折多少の衝突もあるわけでございます。




先日のこと・・・私が家庭内で発した言葉は、私以外の大人たちの言動に返す言葉として発動したのです



大人たち「出来ないよりできたほうが良い、食べれないより食べれたほうが良い、自分のことは自分ですべき、出来ないまま放置してよいわけがない・・・・」



など等の一瞬聞けばさも真っ当な言葉や意見に聞こえる台詞たちでございました。



そしてこの戯け者あげは美樹は言いました

「あんたは人の未来が見える仙人か?」と・・・・・

「あんたの人生はそれが出来ないから困ったことがあるというような自身の歩いてきた道程に沿って想う意見なのではないか?」と・・・・




愚者は 経験から学び

賢者は 歴史から学ぶ
ドイツの初代宰相であった ビスマルクの言葉


愚か者が賢者を育てようとしている図にしか私には見えなかった・・・・自身の経験を人に押し付けているあたり愚か者的行動じゃないの???はたまた自分の経験は歴史と勘違いしているのか?

疑問が溢れるわけです

私あげは美樹は賢者は育てられるものではないということ



私は間違いなく愚か者である


そして、私はあえて付け加えるのなら、胸を張って誇り高き愚か者でありたいと願ってきたのかもしれない




生まれつき賢者ではなかったものの、自分の愚かさを知り、その自分を愛し、日々学び続けることがこの小さな自分に出来る最善の生き様だったと今のところこの人生を幸せだと思っているから・・・・



賢者になるか愚か者かということよりもその人生が幸せかどうかに焦点があっている私が居る。


そして最初の下りに戻る


賢者になればよい、とか愚か者よりも賢者のほうが良い というような愚かな大人の傲慢な理想論をこれからの可能性や未来が待っている子供に押し付けるべきなのか?という疑問が後を絶たなかったのであのような発言をしてしまったわけです



私はありがたいことに、出来そこないとも言われた、色んなことが不足している足りない人間だったがゆえ
沢山の人たちに力をお借りしたり、学びを頂いたりすることができた

その結果今なおこの年齢になっても日々学び多き時間を頂戴することが出来る。


出来ないからこその幸せだってあれば、出来ないからこそ得るものもある



出来ることも出来ないことも、人の人生の上においては全くと言っていいほど同じ尺であることを愚かで傲慢な大人は忘れるのだ・・・・おっと傲慢という言葉も否定的に理解されないように違う表現で言うならば理想主義の割に理想通りに生きれなかった故現在も自分の理想とたたかい続けている愚かな人たち?とも言おうか・・・



出来るから良い、出来ないより出来るほうが良い    私にはこの観点が無い。
確かに出来ないより出来たほうが良いのかもしれないけれど・・・いまいち私にはピンとこない



人を育てることは多分不可能で、育児と呼ばれる日々の子育てというのは、多分年齢の違う人間同士が共に生きる中で生まれる意見のすり合わせであり、その中で互いが成長していることが大切なのだろう。



だからとて大人の責任を果たさない、親の責任を果たさないというのは別問題なのだけれど
私たち親にできることは、ただひたすら、自分が一生懸命に生きる姿を見せることだけなのだ



ん???これを世間で無責任と呼ぶのか?(笑)



ま・・・そんなこんなで、私はサウンド的な言語理解をする昨今の風潮に時折疑問を抱く。


出来る と出来ない  否定と肯定   このプラス、マイナスとイメージされる言葉



プラスは良くて、マイナスはダメ   みたいな感覚・・・あまり心地良いものではない



プラス5もマイナス5も結局5という幅は同じなのに・・・・言葉の魔法に一喜一憂する人がどれほど多いことか・・・・・




そして、自分が出来ないよりできたほうが良いという固定観念でこれからの未来ある人に偉そうに意見すべきではないだろう。なぜなら、未来ある人の人生は私たちに見えるものではないため、決めつけてやることは傲慢な行為になるからと私は想うから・・・・


未来ある人を応援することは互いにとってとても素敵だと想う、だけど決めつけたり、押し付けたりすることはまた意味が違う


その上自分が決めつけてたり、押し付けてたりしている意識さえない、気づけない大人もとても多い



そこで私は今日記事を書こうと思った。
日々自分の顔を鏡で15分以上見つめ、自分の一日の言動を振り返り、自分を凝視することをしていますか?と問いかけてみたくなったものですから・・・・



無意識に自分を棚に上げて発言する傲慢な大人の増加をただ黙ってみていることはできなかった



こうして書き記すことによって、自分自身にも反省や自問自答をしなければならないと思ったから。




どうでしょう?皆様、自分の人生を歩いただけのたかが数十年という経験だけで人の未来を土足で汚していませんか?




とても難しい話です、考え方も色々です。
私の考えが正しいとも思いません・・・しかし、表現の自由が許されていることへの甘えと感謝のココロで
思わずここまで書きました。




人それぞれ、その個性豊かで結び合う人と人のつながりの中に、相手を想う心、思いやりってものが存在するために・・・傲慢な考え方、浅はかな言動、屈折した感情が邪魔していませんか?




私も思いやりを忘れず、素直に、謙虚に、もう一度再確認していきたいと思います。



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